日本兵の人肉食事件
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丸谷 元人(危機管理コンサルタント)
1997年10月17日、「週刊朝日」が驚天動地の「スクープルポ」なるものを報じた。
この記事には、『母は、この飯ごうでゆでられて……』などという強烈な文字が踊っており、「人肉食の被害者」や、「強姦の後に殺害」された人の被害者も詳細に書かれており、
ある現地人の運動家が日本政府に補償を求めている、という内容であった。
記事にはこうある。
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すでに被害登録は約6万5000人にのぼるという。
ちなみに現在のパプアの人口は390万人。
登録者は約60人に一人になる(登録者はニューギニア島東部だけではなく
ラバウルなど周辺の島々を合わせた数)。
最も多いのは「武器や食料の運搬に駆り出された」約2万6000人だが、人
肉食犠牲者1817人、胸を切断され死亡した女性19人、性器を蛮刀でえぐ
られて殺された女性8人、強姦されて殺害された女性5164人。
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私は、いかにパプアニューギニアが「親日国」であるか、ということを強調してきたが、それでも普通の人が一度この記事を目にすれば、「こんな週刊誌に書かれているくらいだから、やっぱり日本軍は凄まじい暴虐をやっていたのだ。それなのにパプアニューギニアが親日だなんて、本当だろうか?」という疑問が湧いて当然なのである。
それがまともな感覚であろう。
そこで、以下に私の考えを記述するが、読者の皆様にも多少の「血なまぐさい話」や「エログロ話」にお付き合いいただかねばならない。
なぜならこの問題は、今後の日本が南太平洋問題に関わる上で、絶対的に避けては通れない重要なことだからである。
まず第一に、ニューギニア戦線で「人肉食」があったかといえば、それは間違いなく「あった」。
これは、誰も否定していない事実である。
元々、ニューギニアというところは、わずかな数の原住民がジャングルの奥地に小さな集落を築き、そこで原始生活に近い暮らししかしていなかった未開の土地であった。
彼らは組織的な農耕をするわけでもなく、自分たちが食べる分だけの農作物を細々と栽培していればよかったが、そこにある日突然、十数万の日本兵が進出したのである。
当初こそ、日本軍は日本から送られてきた食糧を食べていたが、敵の潜水艦作戦で輸送ルートが滞り始めた頃から、ニューブリテン島のラバウルなどでは今村均将軍の指揮のもと、自給自足生活が行われるようになった。
ラバウルは、「ラバウル航空隊」と呼ばれた海軍航空隊が大活躍したところであるが、火山灰が降り積もった極めて豊かな土壌を持つ地域であるため、あらゆる野菜がすくすくと育ち、稲作にも成功。
当時の日本軍将兵の多くが農村出身者であったことも幸いし、ラバウル10万の日本軍将兵は、戦中から戦後にかけて完全自活に成功している。
当時、ラバウルでできなかったのは、「歯磨き粉と子供だけ」と言われていたらしい。
実際ラバウルでは、開戦から約1ヵ月半後に日本陸軍の精鋭「南海支隊」が上陸して占領した時を除き、最後まで上陸戦闘すら発生することもなかった。
つまり敵基地や艦船を攻撃するための航空攻勢作戦か、または北上する連合軍航空隊に対する基地上空での迎撃作戦が主であったため、空襲の合間に兵士たちは農耕活動を行うことができたのである。
だから、ここにはそんな凄惨な話は残っていない。
一方、ニューギニア本島の状況は違った。
元々、気候風土は極めて厳しく、道路さえほとんど存在しなかった未開の地域である。
そこにオーストラリア軍やアメリカ軍が上陸し、激しい陸上戦闘が各地で発生。
日本軍は微弱な装備で抵抗したものの、やがて補給線が途絶え、敵からの物量攻撃が激しさを増した。
徐々に追い詰められた日本軍将兵は、マラリアなどの風土病にも冒され、まともな医療資材も薬もなく、食糧もまったくない状態で、それでも重い銃や砲を担ぎ、あちこち移動しながら戦うしかなかったのである。
すでに昭和17年7月に発動されたポートモレスビー作戦においては、その後半戦となる10月ごろ、撤退する日本軍将兵はオーエンスタンレー山脈の山中で、最初の人肉食を行っている。
7月から8月にかけて上陸した南海支隊は、わずか2週間分の食糧しか持たされておらず、この頃はすでに飢えて久しい状態にあったのだ。
当時、この作戦に参加し、一個中隊を指揮していた高知県出身の歴戦の曹長は、転進の途中、山の中でガリガリにやせ細ったある伍長が、敵兵のものらしい人間の腕をぶら下げているのを目撃した。
「おい、そんな手なんかふてい(捨てろ)」
と命じた曹長に対し、すでに絶食状態で生死をさまよっていたその伍長は反抗的な視線を送ると、銃剣を使ってその「手」の部分だけを曹長の目の前で切り取ると、これ見よがしにそれを放り捨て、残りの腕の部分をぶら下げたまま消えてしまったという。
その後、南海支隊はニューギニア北部海岸のブナ、ゴナ(バサブア)、ギルワという陣地に押し込められ、まったく弾薬や食糧、衛生資材の補給がないまま、10倍近い敵と2ヵ月以上、死闘を演じるのであるが、その頃には多くの人肉食が行われた。
しかし、当時の現場は凄まじい「飢餓地獄」であったことを絶対に忘れてはならない。
ある元兵士は、乾パン一袋で20日間食いつなげと言われ、追いかけてくる敵と戦いながら必死の思いで食い延ばしをやったが、
結局その後70日間、いっさいの食糧を与えられることはなかったというし、別の兵士(衛生兵)は、タコツボ(一人用の戦闘壕)の目の前に小さな「畑」を作り、それを30に区切って、そこから飛び出すわずかな雑草の芽を摘み、それを1日の食糧にしていたという。
前者は、上陸時70キロ近くあった体重が、1年後にラバウルに戻った時には28キロほどしかなかったというし、後者の衛生兵は、横になると痩せ過ぎのために突き出た腰骨が地面に当たって痛いので、そのための小さな穴を掘ってから寝るようにしたという。
こんな敗残兵らの帰還を見た後方勤務の兵士らは、「骸骨がふんどしだけを着けて歩いているようだ」と思ったという。
彼らのいた陣地は、敵との距離わずか30~100メートルという最前線にあり、周囲は完全に包囲されていて、武器弾薬食糧のいっさいが途絶していた。
そんな中、飢餓による苦しみの極限に達した兵士らが、射殺した敵兵の肉に手を出すという
地獄絵図が展開された。
当初は、射殺した敵兵はそのまま放置されたが、あの灼熱の地のことである。
死骸は半日も絶たないうちから腐り始め、風向きによっては耐えがたい臭気を
陣地に送り続けた。
それを何とかするため、最初は少数の兵士らが陣地を飛び出して敵兵の腐乱遺体に土をかけたりしていたのだが、そのうちに、飢餓状態にあった兵士らが、まだ腐敗していない敵の肝臓を手に取り始めたのだという。
そこからが始まりだった。
人肉に手を出したのは、「もしあと1日生き延びれば、食糧にありつけるかもしれない」という、ほとんど絶望的だが、しかし日本で自分の帰りを待つ愛する人々のもとへ帰るため、その命をつなぐ最後の手段として行われたのだ。
もちろん、その対象となったのは、オーストラリア兵やアメリカ兵だけではない。
戦域によっては、現地人がその対象になったこともある。
問題は、そんな体験をしたことさえない、昼食を一食抜いただけで「ああ、腹減った」とぼやく、飽食した今の我々に、いったい何をもってそれを非難する資格があるのか、ということである。
一方、ニューギニアの一部の部族には「食人」の習慣があったことも事実である。
アメリカの第41代副大統領であるネルソン・ロックフェラーの息子マイケルは、1961年11月にニューギニアで遭難したが、彼は地元の部族によって殺され、食べられたと信じられている(この部族では、酋長ら数名がその数年前にオランダ官憲によって殺害され、白人に対する怨恨感情を有していたとも言われる)。
また何年か前には、パプアニューギニアの地方を旅したイタリア人写真家が『最後のパプア』という本を出版したが、その中には、地方に住む部族のある老人が、「白人の肉は臭くて塩辛いが、一番うまいのは日本人の肉だ。我々の部族の女たちと同じくらい美味い」と話したとする行があり、世界中で大変に話題となった。
つまり、日本の敗残兵も食われていたということだ。
実際、私の手元には、適性現地人がひげ面の日本兵の首を切り落として、誇らしげに持っている凄惨な写真があるが、ここではとても見せられる代物ではない。
要は、それが「ニューギニアの戦場」の現実だった、ということである。
出典:丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵 pp.151-156