ウズベキスタン大統領「日本人のようになりなさい」
「日本人のようになりなさい」母は私にそう言いました
あなたはご存知でしょうか。
「日本人のようになりなさい」
このような言葉が80年近く語られている国があります。
それは親日国として知られる台湾ではありません。
日本と長年の交友関係があるトルコや、近年、急速な発展にともない日本との関係が強化されているベトナムでもありません。
その国とは…
ウズベキスタン。
中央アジアに位置する国です。
かつてウズベキスタンの大統領を務めたカリモフ氏は、生前、このようなことを話していたそうです。
「日本人のようになりなさい。母の言いつけを守って、今日、私は大統領になることができました。」
しかし、日本からおよそ6,000km以上も離れた中央アジアに位置し、一見、縁もゆかりもなさそうな国・ウズベキスタン。
一体なぜ、このような言葉が長年、語り継がれているのでしょうか。
実はその理由は、ほとんどの日本人が知らない、およそ80年前に起きたある悲劇に隠されていました。
日本とウズベキスタンの知られざる歴史に迫ります。
日本人を襲ったシベリア抑留の悲劇
今からおよそ80年前。
第二次世界大戦末期の満洲。
1945年8月9日頃に、ソ連は日ソ中立条約を破り、満洲(現在の中国東北部や内モンゴル自治区)、そして当時日本の領土であった朝鮮半島、南樺太などに攻めこんできました。
日本は8月15日にポツダム宣言を受け入れて降伏しましたが、8月23日頃までソ連軍の侵攻は続き、ソ連はその戦闘の中で捕虜となった日本人を、数年から十数年に渡って各地に抑留し、強制労働を強いたのです。
戦後、日本人を襲った悲劇、いわゆる「シベリア抑留」と呼ばれるものです。
過酷な労働や厳しい環境による栄養失調や怪我等でたくさんの方が日本に戻ることなく亡くなったとされ、その抑留者が送られた場所の一つが、中央アジアの国・ウズベキスタンでした。
ウズベキスタンの人々を驚かせた日本人の行動
抑留者たちが収容されていた場所、ラーゲリの近くに住んでいた人によると、「日本人抑留者は朝、整然と隊列を組んで出て、労働が終わった夕方にはまた整然と隊列を組んで帰ってきていた。
朝に出かけるときはいつも決まった時間に通るので、彼らの歩く下駄の音を、目覚まし時計代わりにしていた人もいるほどだった」
またある人は、ある時、大変な労働でおなかがすいているだろうからと、収容所の柵の間からパンと果物を差し入れたところ、数日後同じ場所に手作りの木のおもちゃが置かれていた。
このことを母親に伝えるとこういわれたのです。
『日本人は勤勉で礼儀正しい。物を作るのもうまいうえに恩を忘れない人だ。あなたも日本人のようになりなさい。』と。
そして、日本人の働きは、抑留が終わった後、さらにウズベキスタンの人々を驚かせます。
大地震から現地の人を守った・ナヴォイ劇場
1966年に首都のタシケントのおよそ70%の住宅や建築物が倒壊する大地震に見舞われました。
その中で、ナヴォイ劇場をはじめ日本人抑留者が建築に携わった建物の多くは地震に耐え、
ほぼ無傷で立ち続け、家を失った人達の避難所として活用されるなど、多くの人の命を救いました。
現在でもナヴォイ劇場はもちろん、日本人がつくった発電所や建物が現役で使われており、
今でもウズベキスタンでは「地震が来たら、日本人がつくった建物に逃げろ!」と語り継がれているそうです。
このように、過酷な環境の中での強制労働、帰国の見込みも立たない抑留という絶望的な状況の中でも、日本人抑留者たちは実直、勤勉に仕事に励み、たとえ日本に帰れなくても周りに手本とされるような行動をとり、
大地震でも倒れない建物を建てることで、自分たちの仕事を全うしました。
また、ウズベキスタンの市民から受けた恩に対しては精一杯の感謝を伝えようとしました。
戦後、この地で強制労働に従事した抑留者一人ひとりの行動が、ウズベキスタンの人々に深い感銘を残しているのです。
「シベリア抑留」
戦後の戦いとしてあまり語られることがない歴史ですが、私たちの両親や祖父母たちの姿は、日本から遠く離れた国の人々の心に今も確かに残っています。
PRIDE and HISTORYメールマガジン より