人間愛の名将:今村均陸軍大将
From:丸谷元人
日中戦争での「援蒋ルート」の遮断作戦や当時ジャワと呼ばれたインドネシアへの上陸作戦を指揮し、2倍以上の兵力を持つ敵を相手にしながらも、圧倒的勝利を収め"不敗の名将"と讃えられた今村均(いまむら ひとし)陸軍大将。
不敗の名将などというと豪快で強気な将軍を想像される方も多いと思いますが、今村大将は大変穏やかな人情味あふれる方だったと伝えられています。
今日はそんな今村大将の人間愛溢れるエピソードをご紹介したいと思います。
インドネシア植民地支配の終焉
1942年3月、今村大将は第16軍 5万5000人の日本兵を率いてジャワ島へ上陸しました。
敵は9万3000人のオランダ軍と5000人の英米豪軍…
圧倒的な戦力差の上、上陸作戦という自軍に不利な状況にありながら、わずか、9日間で倍近い敵を無条件降伏に追い込みこれによって、350年続いたオランダによる植民地統治に終止符を打ったのです。
それまでインドネシアはオランダの圧政に大変に苦しめられていました。
インドネシアというのはヨーロッパが求める胡椒や茶、コーヒーなどの産地です。
そこでオランダが行ったのが強制栽培政策。
インドネシアの人々はオランダの定めた生産物の栽培に強制的に従事させられ、それまで行われていた稲作は激減し、食料自給体制は崩壊…これによる米価の高騰で、餓死者が続出し、人口が8万9500人いた村では9000人に減少するまでになりました。
オランダの植民地支配下でインドネシアの人々の平均寿命は35歳にまで低下したと言われています。
そんなインドネシアを占領し、新しい統治者となったのが今村大将です。
当時の日本は大東亜共栄圏の理想を追い求め、「アジアの白人の支配から独立」を強く推し進めていましたが
その中でも、今村大将は特に強く「アジアの独立」を熱望していた軍人だと言われています。
というのも、今村大将はインドを訪れた際にイギリスによる過酷な搾取を目の当たりにしており、
「なんとしても植民地の方々を自由にして差し上げたい」
と強く願っていました。
そして、こう繰り返していたと言います。
「彼らが独立を自らの手で勝ち取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」
インドネシア独立の布石
そんな今村大将がまず行ったのが学校の設立でした。
官僚の養成学校を作り、農林、商学、工業、医療、商船などの専門学校を次々と開設。
短期の間に10万人のインドネシア人のエリート層を作ってしまったのです。
これにより、インドネシアは自分達で国をまとめていくための土台が出来上がりました。
そして、地方にも次々と学校を設立し、今まで教育を受けられなかった人々にも教育の場を提供し、300以上あった言葉が統一され、今まで禁止されてきたイスラームも復活。
これにより、インドネシアの人々は「我々はインドネシア人である」という民族の自覚を持つこととなります。
そんな今村大将にインドネシア人に対して唯一禁止したことが、オランダ語の使用。
それ以外は、自由にさせ、よく食べ、体を鍛え、勉学に励むことを求めました。
そして、日本軍人の行う不正には厳しく対処し、敵軍であったオランダの人々に対しても比較的自由な生活を補償していました。
大本営からの圧力
このような今村大将は現地民からは大変慕われていたのですが、当然、軍の中央には"生ぬるい"統治であるとよく思わない者もいました。
そこで、中央は今村大将に強圧政策を取るように圧力をかけてきました。
しかし、今村大将はこれを一蹴。
"服するは撃たず、従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し"
"皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし"
という戦陣訓の条項を無視せよというのであれば、自分を免職するようにと
強く反発したのです。
こうしてインドネシアでは引き続き今村式の人間愛の統治が守られることとなります。
自ら獄中に身を投じる
日本軍の決死の戦闘も虚しく大東亜戦争は敗戦という形で終わりを迎えます。
「やっと日本に帰れるのか」
そう帰国を心待ちにする日本兵のもとに暗いニュースが飛び込んできました。
今村大将の部下69名が戦犯として指名され、拘束されてしまったのです。
「処罰するものがいるというのならば、私一人を裁けばいい」
今村大将はそう言って豪軍司令部に何度も通い、なんと、自らラバウル戦犯刑務所に入所。
部下が裁かれそうになるたびに自分が指揮官であるから、自分を裁くようにと食ってかかり、「一人でも多くの部下を救う」という目標のために、思いつく限りの手を尽くします。
その後、今村大将自身もBC級戦犯と認定され、懲役10年の有罪判決を受けてしまいます。
そして、巣鴨拘置所での服役を申し渡されたのですが、かつての部下たちがマヌス島で戦犯として辛い強制労働をさせられていることを知った今村大将は
「自分も部下たちと共にマヌス島で服役したい」と
GHQに申し出て、自らを辛い重労働の獄中へと投じたのです。
これを聞いたマッカーサーは「日本に来て以来初めて真の武士道をふれた思いだった」と、
部下を思う今村大将の指揮官としての責任の取り方に称賛を隠さなかったと言います。