中東、アフリカ、南太平洋の島々など数々の危険地帯で要人警護やテロ対策を行なってきた
危機管理コンサルタント・丸谷元人さん。
その後は言論の世界でも活動するなど特殊なキャリアを歩んでいる丸谷さんですが、どんなきっかけがあって危険な人生へ足を踏み入れたのでしょうか??
実は海外の大学を出た丸谷さんは一部上場の大手商社への内定が決まっていました。
しかし、ある出来事をきっかけに日本人が誰も踏み入れたことのないような茨の道を進むことを決意したのです。
丸谷先生の人生を変えた体験
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パプアニューギニアで見た日本兵の軌跡
私の人生を大きく変えてしまったのはパプアニューギニアでの経験でした。
若い頃、日本軍の戦績調査のために防衛大学の教授のお付きの通訳として2週間パプアニューギニアに行きました。
実はその後、日本に帰国してすぐに一部上場の商社への入社が決まっていました。
しかし、パプアニューギニアで頭を打たれるような経験をした私は帰国後に商社の内定を辞退することになります。
パプアニューギニアについて一発目に衝撃を受けたのは地元の方が今でも日本軍人の墓に花をお供えしているということです。
周りがジャングルで大雨が降っていたにも関わらず日本兵の墓にハイビスカスの花をお供えしてくれていました。
①子供たちの大群
日本陸軍の戦闘機隊がいたブーツ飛行場の調査に向かったときにはたまたま車を降りて休憩していると丘の上から子供たちの大群がウワーっと向かってきたことがあります。
なんだなんだと思っていると「ジャパンだ!ジャパンだ!」というふうにすぐに車を取り囲まれました。
現地人はニコニコしながら「ジャパン、文通しよう」と言うのです。
文通をするのか?と戸惑いましたが悪い気はしないので、どうして文通をしたいのかを聞いてみたら
「我々はジャパンが大好きだ」というわけですね。
「なんで日本が大好きなの?」と聞くと、
「ジャパンは我々を助けてくれたいじめられてた我々と一緒に戦ってくれた」
「ジャパンの兵隊が可愛がってくれた」
と口々に言うわけですね。
日本人をこんなによく思ってくれているのかともうびっくりしてしまいました。
②偶然見つけた日本軍の遺物
また別のところでは、教会から帰ってくる現地人の方を眺めていると、あるものを首からぶら下げているのに気づきました。
「ちょっと見せて」と声をかけるとなんと旧日本軍の認識票だったのです。
じっくりと見ると第何部隊のHさん(仮名)と書いてあるではありませんか。
びっくりしてしまい800円くらいで買い取らせてもらいました。
厚生労働省に問い合わせをするとその3ヶ月後にご遺族の方につながりました。
その方が3歳のときにお父さんが戦争に向かったらしく戦闘機のパイロットだったそうです。
認識票は無事にご遺族の手元にお届けできたのですが
現地人に「その認識票、どこで見つけたの?」と聞くと
「うちの村の外れに墜落した日本軍の戦闘機がある。そこで拾ったんだ」
と教えてくれました。
実際に見にいくと「飛燕」という戦闘機の残骸があってHさんはこの場所でお亡くなりになったと分かりました。
③日本人を待っている現地の人々
また別の日に日本とオーストラリア軍が激戦を繰り広げたアイタペと言う場所に行くと現地のおばあさんとすれ違いました。
そのとき「あんたはチャイナか?コリアか?それともマレーシアか?」と聞かれたので、日本人だと答えるとおばあさんはびっくりしたような顔をしてガラッと態度が柔らかくなりました。
その後しばらく歩いてふと後ろを振り返ると、なんと30人くらいの現地人が行列をつくって後についてきているではありませんか。
私たちは現地住民に取り囲まれ「ジャパンの兵隊は優しかった」「おじいちゃん、おばあちゃんから聞いている」と戦争時代の話をたくさん聞かされました。
さらに「日本軍はいつ帰ってくるんだ?」と質問をされる機会が何度もありました。
気になって尋ねると「日本の兵隊さんは撤退するとき必ず帰ってくると約束してくれた。我々は今でも待っている」
と言われてびっくりしてしまいました。
その後、考えたこと
「すみません。いけません」
2週間の戦績調査ツアーから帰ってきた私は内定先の会社に連絡をして入社をお断りしました。
今でもこの決断は間違っていないと思います。
商社の面接では「あなた男芸者できますか?」と言われていました。
仕事をした後、取引先の接待をするわけですね。
最初は「がむしゃらにやってやろう」と思っていたのですが、パプアニューギニアに行ったあとは
「商社で良い成績を出せる人はたくさんいる。けどパプアでこの現状を見た日本人はそう多くない。私は私にしかできないことをやろう」
そう思ってパプアニューギニアで活動することを決めました。
私たちの先人である日本兵たちのお墓を、戦後60年以上が経ってもなお彼らは守り続けてくれている。
さらには、なんと数百人もの現地人が、日本兵を助けたという理由だけで、その後、裁判もなしに連合国によって処刑されたという事実も聞かされました…
しかし、彼らはそれを恨むどころか、私が日本人というだけで周りを取り囲み、踊り狂わんばかりに歓迎してくれたのです…
その気持ちを嬉しく思う一方、私は強烈な怒りや悲しみに包まれていました。
なぜ、今まで誰も来なかったのだ!
なぜ、こんな不条理が許されているのだ!
ここに眠る戦没者たちのおかげで、今の日本がある。
それなのに我々戦後の日本人は、バブルだ、高級車だ、住宅だ、キャリアだ、収入だ、海外旅行だ、と騒いでいただけ…
その間、これらの戦没将兵たちは、異国の冷たく暗い土の下でずっと我々を待っていたのにもかかわらず…
しかし、私たちはそのことを完全に忘れてしまっているのです…
* * *
私は、英霊たちに恥じない生き方をしたいと強く思いました。
日本で骨をうずめることが出来なかった人たちの想いを絶対に踏みにじらない生き方を。
そういう人を思い出して、感謝して、全ての骨の回収はできないかもしれないけれど、想いだけは忘れずに馳せること。
英霊の方たちが守りたかった「日本」に対する想いを、繋いでいくような生き方をしたいと思ったのです。
そうして、私は危機管理の専門家として、数多くの危険地帯で様々な任務を遂行する道を歩み始めました。
時にスパイと情報戦をし、騙されたり、騙したりもしました。
常に駆け引きのある世界で、「人間」の表と裏もよく見えるようになりました。
時に大切な人を守れず、「人殺し」と呼ばれた日もありました。
私自身も何回も三途の川を渡りそうになりました。