「終戦の日」から始まったもう一つの戦争
<ルネサンス編集部>メルマガより
From: 危機管理コンサルタント 丸谷元人
B級戦犯のエピソードについて、一つ理不尽な捕虜収容所のケースを紹介したいと思います。
これは北海道の室蘭にあった外国人捕虜収容所の話です。
こちらの所長だった方が、平手嘉一中尉という方でした。
この平手嘉一中尉は北海道の北見市出身で20代半ばの若者だったそうです。
子供の頃から野球に熱中しており、高等専門学校のときは甲子園に出場。
そこでホームランを打った選手という中々のスポーツマンでした。
この平手中尉は大阪外国語大学でフランス語を専攻していました。
将来はフランスの文学者になろうとしていたそうです。いわゆる文武両道のインテリ将校だったのです。
収容所では捕虜たちと英語やフランス語で話すことを好んだ人で彼らと仲良くしていました。
当時の日本国内の捕虜収容所にいた連合軍の捕虜たちの多くは、財閥系の工場や鉱山の作業に労働をさせられていたのですが、室蘭収容所の捕虜たちもその例に漏れず地元の日本製鉄の工場で作業をしていました。
しかし、彼らの勤務時間は他の日本人よりも遥かに少なかったと言われています。
当時の日本製鉄は日本陸軍の軍需工場として交代制で24時間操業していました。
日本人の工員は1日14時間勤務だったということで、猛烈に働いていたのですが、捕虜たちは午前8時に収容所を出て午後4時には必ず帰還するという実質8時間勤務でした。
それに対して日本製鐵の社員は「待ってください。日本人がここまで休みを返上して働いているのです。たまには捕虜たちにも残業くらいさせてほしい」という強い要望が出されたのですが、所長であった平手中尉はその意見を無視して、作業時間を厳重に守らせました。
室蘭収容所における平手中尉は捕虜たちの扱いに悩みつつも、できる限りの待遇を保証する人でした。
捕虜たちが食べられる食事の量を少しずつ増量したり、収容所内で鶏を飼育して、タンパク質を摂れるように様々な工夫をしていたのです。
平手中尉については北海道新聞社が出した『処刑:あるB級戦犯の生と死』という本に詳しく書かれています。
平手中尉の上官にあたる江本少佐も、捕虜の待遇については細やかに気を使う人だったそうです。
室蘭の収容所で捕虜たちから「食事の量が少ないから、もっと増やしてほしい」と言われたときも、平手中尉と同じく増量を許可しています。
最終的には1日790gの食料を捕虜たちに提供。当時の日本国民の配給の2倍となる量でした。
しかし、このような彼らの姿勢は、当然ながら一部の将兵からかなりの反感を買っていました。
例えば、平手中尉は部下から「あいつは外人の混血ではないのか。だから捕虜の待遇ばかり気を使っている。英語が上手なのもそのためだ」
と言われていたのです。
その上官の江本少佐も同僚の高級将校から「あいつは捕虜に甘いから駄目なやつだ」ということを言われていました。
しかし、彼らは自らの職責の許す範囲で、ひたすら捕虜たちの待遇改善に心を配っていただけだったのです。
この室蘭捕虜収容所には、「サットル」という名前のイギリス兵の捕虜がいました。
彼はシンガポールで捕虜になったのですが、それまで収容所の中で人の物を沢山盗んだりしていました。
あるとき、このサットルが収容所内の食料貯蔵庫から米と大麦の入った袋を2度にわたって盗み出して隠し持っていたことが発覚しました。
それまでも、サットルが盗みを働く度に、平手中尉は彼を営倉(懲罰房)に入れたりしていたのですが、あまりに常習性が凄まじいので「重営倉10日の刑」を言い渡したのです。
“重営倉”とは、1日ほとんど出てこられない狭い独房のような部屋に10日間入れられる刑罰であります。
あまりにも常習性が強く悪質だったので、これまでのような軽い処分では駄目だと平手中尉が判断したのです。
しかし、ここで事件が起きてしまうのです。
平手中尉による処分を受けて営倉に入ったサットルが数日経ってから体調不良を訴えて入院。2、3日後に肺炎で死亡したのです。
このサットル死亡の責任を問われ、平手中尉は戦後に戦犯容疑で逮捕されてしまいます。
戦犯容疑に問われたとき、平手中尉はそこまで深刻な問題だと捉えていなかったようで、旭川の駅から夜行列車に乗って東京の裁判所に出廷するとき、見送りに来てくれた婚約者がいたのですが、その方に「2、3年は帰ってこられないかもしれないが自分を信じて待っていてほしい」と伝えていたのです。
この平手中尉は先ほども言いました通り、元々フランス文学者を目指した元学徒だったらしく、この婚約者に対してゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』といった文庫本を送り、「これは面白いから読んだ方がいい」と勧めていたほど非常に教養が高く立派な方でした。
実際にB級戦犯裁判が始まったときの平手中尉の態度は、日本人の美意識的な感覚から言うと非常に立派なものだったそうです。
つまり、自らに責任があることは「ある」と男らしくはっきりと認めたのです。
しかし、欧米では責任を認めるということは、すなわち罪と代償の刑罰を引き受けることに他なりません。
そのことが報復感情を伴った戦犯裁判の行方を決定的に不利な方向へ向けてしまいました。
この結果、平手中尉が捕虜たちの待遇改善のために行なった多くの配慮が一切顧みられることなく、「サットルを死なせた」という罪によって絞首刑を宣告されたのです。
この裁判の間、イギリスにいるサットルの遺族から「私たちの愛する息子を殺した
憎い憎い日本人を絞首刑にして、子供の仇をとってもらいたい」
という電報が送られてきました。
そして、平手の罪を徹底的に追及したイギリス検察官のエバンス少佐は、裁判の最後に「このご両親のためにも、世界の平和を願うためにも、平手に絞首刑の宣告を下される事をお願いします」
と締め括ったのです。
このような検事の一言をとってみても、連合軍による戦犯裁判が「激しい報復感情」に充たされており、その内容も時には一方的で杜撰極まりなかったことがわかります。
終戦から1年ほど経った昭和21年8月23日。
平手中尉は東京の巣鴨プリズンで“刑場の露”となって消えてしまいました。若干御年28歳だったということです。
死刑の直前、平手中尉はかつて旭川駅に自分を見送りに来た婚約者との最後の別れの夜を偲びながら、彼女を想って歌を詠んでいます。
「火の桶をかこみて細き君が手に触れにし夕べを忘られぬかも」
この短歌を残して絞首刑になってしまいました。